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投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3

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[全小説] [最新5小説] No.〜No.

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No.324 (2014/06/20 22:23) title:バイプレーヤー 乙女の憂鬱
Name:桐加 由貴 (softbank126047091103.bbtec.net)

 深紅の絹に重ねた透ける白い布は東領の最高級の生地「白雪」であると、見るものが見ればすぐ判る。
 北領に多い色の薄い金髪を高く結いあげた媚明は、父の執務室に向かっていた。
「――これは、媚明様」
「まあ、江青様」
 毘沙王の侍従長である江青に行きあい、ドレスの裾をつまんで膝を折る。
「お久しゅうございます。父がお世話になっておりますわ」
「こちらこそ、ご無沙汰しております。ご母堂や姉君方はお元気でいらっしゃいますか」
「はい、おかげさまで。江青様の奥様にも、姉達が良くしていただいているようで、ありがとうございます」
 童顔だが妻子持ちの侍従長は、笑顔に緊張感を忍ばせながら言った。
「・・・本日はよろしくお願いいたします」
 媚明は微笑んだ。
「わたくしこそ、どうぞよしなに」
 会釈した侍従長が立ち去ると、媚明はさりげなく周囲を見回した。
(麒麟がいなければいいのだけれど・・・)
 家で待っているペット、リスのヒスイが恋しい。
 何度か見かけたことのある、毘沙王山凍の傍らに寄り添う黒麒麟が、媚明はどうしても苦手だった。
(鱗のある生き物なんて嫌だわ・・・。それもあんな大きな・・・)
「・・・憂鬱だわ・・・」

 媚明の父はこの北領の大臣の一人である。媚明はその末娘だ。
 六人姉妹の末娘。貴族には珍しい、全員が同母の姉妹。しかも美人揃いと評判で、数代前には王族の降嫁もあった、押しも押されもせぬ名家の、最後に残った家付き娘――それが媚明なのである。
 当然、文殊塾時代から、天界中の貴族から縁談が持ち込まれた。塾の同級生を通して兄だ叔父だ従兄だと引きあわされたことは数知れず、そんな中でも媚明は、年頃の娘らしく年の近い守護主天や東領の第三王子に憧れる、至って平凡な――本人の主観では――貴族の娘として育ってきたのである。
 その令嬢が、二十歳になるというのに婚約者も決まっていないのは、ここが北領であるという理由が大きい。
 昨日、嫁ぎ先から媚明の様子を見に来た四番目の姉などは、その様子に苦笑したものだった。

「気が進まない?」
 媚明は小さく肯いた。
「媚明は毘沙王様が嫌いかしら?」
「・・・立派な方だと思います。良く東領を治め、領民にも慕われておいでです。ただ・・・姉上方は、お嫌ではありませんか? わたくしがもし、毘沙王様に気に入られてしまったら・・・」
「わたくしは気にならないわ。皆、きっと同じよ」
 姉は微笑んだ。
「お友達とのお茶会での話を聞かせてあげたいわ。毘沙王様は、殿方がお考えになるほど女性に慕われているわけではなくてよ。特に、わたくし達くらいの年の女には」
 即位二年目の若き王。元服前に不祥事を起こしたとはいえ、北領の唯一の後継ぎであり、天界でただ一人黒麒麟を従えるようになってからは、彼のもとには何人もの女達が伺候した。
 最初の頃は、夜会や何かで自然と知り合うよう仕向けられていたのだが、毘沙王――山凍は誰にも眼もくれず、業を煮やした先王や重臣達があからさまに妃候補として会わせる令嬢達をも無視し続けた。
『王様には忘れられない人がいるのだ』と、そんな話を喜ぶのは庶民だけだ。先王や重臣達の憂慮は時を追うごとに深く、そしてまた、『この令嬢ならば』と見込まれた身でありながら、一度会えば義務を――先王や重臣に対する義務を、果たしたとばかりに、終始儀礼的な態度を崩さぬ山凍に、令嬢達の誇りはいたく傷ついた。
 最初の妃候補が誰なのか、媚明は知らない。だが恐らく、山凍と同じ年頃の、大貴族の、美貌も気品も教養も王妃として恥ずかしくないだけのものを兼ね備えた令嬢だったことだろう。
 その誰かは今頃はもう、誰かの妻となり母となっているのだろう。だが狭い貴族社会で、その誰かは恐らく媚明の知っている女性なのだ。もしかしたら、一番目の姉その人なのかもしれない。年頃から言えば不思議ではない。
 最も王妃にふさわしいと思われたであろうその誰かを拒んだ山凍に、媚明の姉達は皆、一度は引き合わされている。そして年上の友人達もまた。
 王妃になろうという令嬢達だ。それぞれに誇れる何かがある。そんな彼女達が、『前の娘とは違う』というだけの理由で見込まれ、それに山凍は一顧だにしなかったのだ。
 そして、今度は媚明の番だ。大臣の娘であり、そして貴族には珍しい多産の家系という点を見込まれている身として、山凍と見合いして断られてからでなければ、他の家に縁づくこともできないのである。
「わたくし・・・大きな動物はどうしても苦手で・・・」
 しかも黒麒麟は、図鑑でしか見たことがない、西領にいる「鰐」という動物を思わせる。黒光りする鱗、細い瞳孔。
 文殊塾に通っていた頃、南領の暴れん坊の王子を乗せて宙を駆けている姿を何度か見かけたことがある。跨る方も乗せる方も、あんなものにと、媚明は心底ぞっとしたものだ。
「わたくしのことだって、きっと毘沙王様はお気に召さないでしょうに・・・」
「義務を果たすのだとお考えなさいな、媚明。北領の上級貴族の娘は、毘沙王様のお気に召さないことが判ってからでないと、嫁ぎ先も見つけられないのですもの」
 皮肉気に姉は言ったものだ。
「殿方は何故か、女性が皆あの方の妃になりたくて仕方がないものとお考えなのよ。皆さま、毘沙王様に心酔しておいでですもの。毘沙王様も、ご自分はしぶしぶなのに、目の前の女がしぶしぶではないと、まさか本気でお考えではないでしょうけど・・・?」

(・・・無駄なことをしているわ)
 媚明は溜息をつく。
 山凍に気に入られなければ、父や他の大臣達がうるさい。気に入られればそれで、これまで拒まれた女性達は面白くはあるまい。
(わたくしは、暉蚩城の女主人になりたいわけではないのに・・・)
 こうして美しく装って登城したとて、心は晴れない。
「――媚明様。山凍様よりお言付けでございます」
 城の侍従に掛けられた声に、媚明はびくりとして振り向く。山凍がわざわざ自分相手に伝言など。
 緊張する媚明の前で、その侍従は言った。
「申し訳ないが、会食には少し遅れるので、もう少々お待ちいただきたいと」
「――はい。仰せのとおりにいたしますわ・・・」
 媚明はこっそりと溜息をついた。


No.323 (2014/04/16 12:54) title:あかつきの祈り
Name:明希子 (58x13x206x250.ap58.ftth.ucom.ne.jp)


1306年、6月半ば。
カイシャンが率いるモンゴル高原駐留軍の戦功により、曾祖父であるフビライの即位以来
続いた帝国の内紛がようやく終息し、東西和合がなされた頃。
十代のうちから最前線で過ごすカイシャンは、25歳の夏を迎えようとしていた。
高貴な生まれでありながら辺境の戦地へ追いやられる不遇に耐えて、このアルタイの地で
苦楽を共にする仲間を得、他部族や草原の民からの厚い信頼をも得てきた。
その長い年月の間、皇族とはいえ何の後ろ盾も権力も持たない自分を支えてくれた人達に
どうやって報いていけばよいのだろう。
もどかしい葛藤や心情を、桂花に心のまま打ち明ける中で、カイシャンは初めてハーンと
なって叶えたい帝国構想の夢を自覚したのだった。
周辺国とも友好関係を築き、部族による身分の差のない平和な国を―――。
都から遠く離れた地にいる今は、まだ途方もない夢だとしても。
でも、この陣営の力があれば実現できるかもしれない、いや、なんとしても実現させたい。
厳しい死線をくぐり抜けてきたみんなのためにも。
そう幕僚会議で伝えると、腹心の部下たちの表情もみるみる感極まって。
やがて来る新しい時代への構想を、強く決意した夜だった。
会議のあと、約束どおり桂花のゲルを訪れると。
気持ちが高揚して様々に入り混じるまま、身体の熱もいつまでも引いてくれなくて。
何度も何度も、桂花の存在を肌で確かめるように求めるカイシャンを、全身で抱きとめて
応えてくれるぬくもりに、あらためて深い幸せを感じた。
「…俺についてきてくれるか?」
「ずっと、あなたのお傍におります」
このぬくもりさえあれば、どんな試練も乗り越えていける自信がある。
それほど俺にとっておまえは特別なんだと口説くように、ひときわ濃密な夜を過ごした。

                    *

暁を迎えるにはまだ幾分か早い、ほの暗い夜明け前。
心地よい夢から目覚めたカイシャンは、うつつに戻ってからもすぐ隣にその夢みた相手が
いることに、満ち足りた気分をかみしめた。
桂花が、傍らで眠っている。
体温を分け合う近さで、そっと寄り添って休んでいる。
それだけのことが、何にも代えがたいほど幸せでいとおしい。
安らかな寝顔を見せてくれるのは、身も心も預けてくれている証でもあるから。
静かに息づく胸に鼻先をもぐり込ませると、なめらかな肌触りと香気をじかに感じられて。
彼が、たしかにここに存在していると実感でき、嬉しさが溢れてくる。
いつまでもその眠りをそばで見守っていたいような、反面、あらん限りの力で抱きしめて
ぐちゃぐちゃに転げまわりたいような。
(どうしたもんかなー、珍しくよく寝てんのに起こしたら怒るかな…。でも、怒った顔も
たまんないし。でもでも、寝顔も捨てがたいし…)
あれこれ好き勝手に悩む時間すら楽しい。
どれほど抱き合っても、お互い身体の隅々まで余すことなく触れ合っても、好きだと思う
気持ちは一向に尽きない。
記憶もおぼつかない昔から、紫水晶のきらめきにずっと惹かれ続けている。
幼い頃は、不思議な光を宿した瞳に憧れて、いつも夢中で見上げてばかりいた。
ただまっすぐ光を追って伸びていく向日葵のように。
きれいな色合いを少しでも眺めていたい、その中に自分の姿を映してみたいと思って。
そんなに見上げてばかりいては首が疲れるでしょう、と何度言われたか。
桂花がしゃがんで目線を合わせてくれると、彼の瞳や表情が間近で見られて嬉しい気持ち
と、そうしてもらわないと届かない背丈の差がはがゆい気持ちとに挟まれたものだ。
やがて、きれいな紫の光の奥底には、はかりしれない愁いの影が揺らめいていることにも
気づき始めたのはいつのことだったろう。
ふとしたときに垣間見える、哀しさや切なさや痛ましさを湛えた瞳。
微笑んでいても桂花の心は泣いているようで、ますます目が離せなくなった。
そして、初めて自分の前で涙をこぼすのを見た日のことは、今でも忘れられない。
教育係でも薬師でもなく、素の桂花の感情に初めて触れられた気がした。
ひっそりと流れる涙をぬぐってあげたくて、だけどうまい慰め方がわからなくて、せめて
少しでも包み込んでやれたらと願いながら両腕で抱き寄せていた。
そのとき明かされた、彼の心に住み続ける恋人の存在。
何にも執着しない桂花が「吾の宝」と語るほどの。
亡くなってどれだけ季節が移ろうとも夢で呼ぶくらい、かけがえのない相手なのだろう。
そこまで今なお強く想われている男に妬かないわけではないが、それ以上に、深い喪失感
や悲哀を抱える桂花を、まるごと守ってやれるようになりたかった。
自分の前でだけは、何も我慢しなくていいように。
ともに日々を重ねるうち、いつか寂しい影も幸せな光で癒してやれるように。
そうやって慕い続けた紫の瞳が、今、腕の中でまどろみから覚醒しようとしていた。

                    *

しっとりと頬に陰影を落としていた睫毛がふるえ、まばたきを始める。
まだぼんやりとした眼差しが、少しずつカイシャンの輪郭をとらえ、ほっと息をついた。
「…桂花?」
「ん…」
「起きちゃったか? まだ横になってていいぞ」
「今は…、何刻です?」
「もうすぐ夜明けだ。よく眠ってたな」
「…際限を知らない誰かさんに付き合ったおかげで。さすがにもうムリって懇願しても、
あなたってば…」
吐息に交じる声は、けだるさをにじませて少し掠れてしまっている。
俺は最高に夢心地だったぞ、と笑って返すと、恨めしげな視線にひと睨みされた。
「ほら、その目がやばいんだって。昼間は違うのに、あんな艶っぽく潤ませられたら…」
どこもかしこもトロトロに溶かしちゃいたくなるって、と耳元に直接ささやく。
そのまま髪に唇をもぐらせて、敏感な耳朶のつけ根をはんでやると、肌がぴくりと跳ねて
甘い息をこらえるように首が竦められた。
「…っ、待って、これ以上はほんとに…」
お互いの身体の奥に火がつく一歩手前で秘めやかな駆け引きを仕掛け合うのも楽しいが、
今はまだ、ゆったりと昨夜の余韻にひたっていたいようだ。
長い指が黒髪に触れて、大きな獣をなだめるみたいに撫でていく。
しばらくすると、これで許してというふうに白皙の額がコツンと胸元にすり寄せられて、
向かい合った姿勢のまま目をつむってしまった。
「うぅ、こんなくっつかれてて我慢できるかな、俺…」
このままお預けなんてイジワルだよな…、あーでも昨日いじめちゃったのは俺か…、とか
なんとか唸りながらも、カイシャンは恋人の望みを優先することにした。
ちょっぴり切なそうな顔で耐えていると、桂花もついほだされてしまうようで。
「今すぐは付き合えませんが、また回復したら…、ね?」
苦笑しながら小首をかしげる仕草がたまらない。
「じゃ、早く回復するように俺の血を飲め。最近しばらくご無沙汰だっただろ、なっ」
絶好の機会とばかりに、いそいそと短剣を手元にひきよせる。 
桂花のほうは最初、血を飲むだなんて気味悪がられるのではないかと心配したようだが、
カイシャンはむしろ頼ってもらえて嬉しかった。
好きな相手のためなら何でもしてやりたいし、誰にもその役目を渡すつもりはない。
だから、昨日シドルの腕に顔を伏せているのを見たときは、治療の一環とわかっていても
じりじり胸が焦がれるのを抑えられなかった。
治療であれ何であれ、桂花がほかの奴のものを口にふくむのは嫌なのだ。
その口直しもさせたかったカイシャンは、清潔な布と水と燭台を手早く用意すると、枕元
のクッションを背もたれにして座り、両脚の間に愛しい身体を抱き寄せた。
桂花の背後から腕をまわすと、すらりとした首を自分の肩にもたせかけて支える。
そうして懐深く囲い込むようにしてから、桂花の胸の前に左腕をかざし、ろうそくの火で
あぶった剣先をあてた。
真紅の珠が、つぷりと盛り上がる。
腕の内側のやわらかい部分に唇が寄せられて、鮮やかな雫を丹念に舐めとっていく。
しんと静まり返るふたりきりの空間に、ちゅ…と肌に吸いつく水音と、こくりと嚥下する
息づかいだけが響いていた。
ちろちろ見え隠れする赤い舌先。
時折、角度を変えて傾けられる扇情的なおとがい。
まばたきに合わせて影を落とす睫毛の下には、しっとりと潤んだ紫水晶の瞳。
ろうそくの灯りに照らされてあやしく揺らめいている宝石は、舐めればきっと蕩けるほど
甘いに違いない。
視界に映るどれもこれもに煽られてしまったカイシャンは、寛衣を羽織っただけの艶腰を
ぐっと自分に引き寄せると、ぴったり隙間がなくなるまで身体を密着させた。
お互いの鼓動が、熱が、重なってゆく。
次第に吐息も溶け合って、気持ちが昂ぶらずにいられない。
大好きな長い髪に顔をうずめ、桂花の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
すると、ますます五感が刺激されてしまい、たまらず絹のような髪を鼻先でかき分けると、
あらわになったうなじを目と舌で絡めとるように味わい始めた。
「…ねぇ、ちょっと。飲みづらいんですけど」
「だっておまえ、もう色っぽすぎ…」
「我慢の足りないお方ですね」
「うん、桂花には絶対かなわないもん、俺」
素直に降参して、色香ただよう肩口になついてしまう。
「はいはい、甘え上手なんだから…」
なかば呆れつつも、結局カイシャンのすべてを受け入れて甘やかしてくれるのだ。
大事すぎて、一生離したくなくて、胸の奥がぎゅうぎゅう締めつけられる。
「…もう充分いただきました。ご馳走さまでした」
優しい響きとともに向けられる微笑み。
その濡れた唇を、節の大きな親指でゆっくり愛撫するようにぬぐって視線を交わす。
いつもなら、この行為のあとはお互い身体中に熱が広まり、そのまま心ゆくまで睦みあう
ところだが、今は昨夜のなごりを感じながら疼きをこらえる。
寝台の脇に脱ぎ落とされた上衣から、桂花が黒い丸薬を取りだした。
自ら水で流し込もうとするのを制して、水差しを奪ってしまう。
「…俺が飲ませてやる」
低く告げて、後ろから細い顎をつまんで仰がせると、ドクドク脈打つカイシャンの胸板に
囲われた桂花に覆い被さり、口移しでのどの奥に注ぎ込む。
ぽたり、ぽたりと、殊更に時間をかけて。
最後の一滴がすべり落ちるまで、ふたり重なり合って至福のときを享受した。

                    *

夜明けとともにゲルの外へ出ると、雄大なモンゴルの大地と、濃い青から淡い紫に染まる
きれいな暁の空が、どこまでも果てしなく広がっていた。
幼い日から慕う紫の瞳と同じ、心に染み入る色彩が空に溶けてゆく。
あの頃は背丈も中身も追いつくにはまだまだだったけど、男として桂花をまるごと包んで
守ってやれる器になれたら、きちんと言葉にして伝えたい想いがあった。
ずっと言いたくて、でもまだ口にできていない、世界で一番好きな相手に伝える言葉を。
ハーンとなって、夢への一歩を実現できた暁にこそ、必ず。
そしてそのときには、カイシャンの大好きなあの瞳が、暁の空のように美しく幸せな光で
満たされることを祈って―――。


No.322 (2014/02/02 12:33) title:WINDING ROAD 2
Name:明希子 (119-230-137-48f1.osk3.eonet.ne.jp)

F1の新シーズンの幕開けが迫るサーキットには、そわそわ逸る気持ちを抑えきれないでいる
人々が大勢いて、その光景を目にするだけで心が浮き立ってくる。
陽が昇り、ぞくぞくと到着する関係者たち。
刻一刻と近づく開幕戦に、アシュレイも身震いするほどの高揚を感じていた。
マシン整備で慌しいピットガレージ裏のパドック広場では、各チームのスタッフが溢れ返り、
そこかしこで今シーズンの展望をにぎやかに論じている。
各種メディアやスポンサーなども入り交じるなか、アシュレイは見知った男と出くわした。
「よっ、注目のルーキー! 全身まっ赤って、遠くからでも目立ちまくりだな」
陽気な笑顔で声をかけてきたのは、カート時代からの親友で、アシュレイより2年先にF1へ
参戦している柢王だ。
若手ながら勝負ぎわの駆け引きがうまく、疾風迅雷の走りが魅力的なこの男は、近い将来に
ワールドチャンピオンの称号をも獲るだろうと目されているほどだ。
アシュレイにとっては、昔から遊びでもレースでも全力で競い合ってこられた仲間でもあり、
なにかと頼りになる兄貴分でもあり、思い描く未来を一歩先で体現している存在でもある。
そんな柢王のことで、シーズン直前に衝撃のニュースが飛び込んできた。
驚いたことに、最大のライバルチームのひとつであるマジェスティーズ・フォーミュラから
メインのレースエンジニアを自分の担当として引き抜いたというのだ。
レースエンジニアとは、レース中に高速で走り続けるドライバーと無線で交信し、最適な
パフォーマンスを発揮できるよう、瞬時の状況判断や戦略選択によって補佐する役割を担う。
狭いコックピットの中で全神経を研ぎ澄ませて戦うドライバーの、目となり耳となり、頭脳
ともなって、共に高みを目指す。
ひとりのドライバーに対し、レースエンジニアもひとりしか存在せず、まさに片腕・相棒と
呼べるほどの、密接な信頼関係の構築が欠かせない。
命の危険と隣り合わせの世界で、相互の信頼関係が戦績にも大きく影響するのだ。
そのようにチームで重要な鍵をにぎる立場にある者の突然の移籍は、通常まずありえない。
しかも、マジェスティーズのチーム代表の秘蔵とも囁かれていた人物の思いがけない離脱に、
F1界全体が驚愕を隠せなかった。
加えて、くだんのエンジニアには、ある事故から暗い憶測もつきまとっている時期だった。
その渦中の人物が柢王と連れ立っているのを見て、アシュレイの表情が険しくなる。
「…なんか知らねェけど、おまえこそヘンな噂で目立ってんじゃねーか」
(俺にひとことの相談もなく勝手に決めちまいやがって!)
柢王が先にF1の舞台へステップアップした頃から、なんだか置いていかれたような気がして
接触を避けだしたのは自分のほうなのに、理不尽に恨んでしまう気持ちを抑えられない。
でも、飄々とした態度の友人は、
「そうそう、ちょうどおまえに紹介しようと思ってたとこなんだ」
やや後ろで静かに佇んでいた細身の男の肩に、がしっと腕を回してまた向き直る。
スキンシップが大好きな褐色の腕は、くっつきすぎですとやんわり払われていたが、そんな
親しげなやりとり自体も気に食わなくて、アシュレイはさらに意固地になってしまう。
「ハッ、紹介なんかいらねー。ライバルチームに乗り換えるような奴は信用できねーからな!」
きつい言葉に柢王は頭を掻きながらも、
「まぁまぁ、俺の話も聞けって。な?」
へらりと絞まりのない笑みを浮かべている。
まいったな、という素振りで肩を竦めつつ目線を合わせて近づこうとするので、アシュレイは
うっかり気を許してしまわないよう距離を空けたまま睨みつけた。
「…なら、正直に答えろ」
「おう、なんでも聞いてくれ」
「…なんでわざわざそんな、よその奴を引っこ抜く必要があんだ!」
「なんでって、俺がこいつに一目惚れしたからさ」
「……はぁっ?! 一目ぼ…って、そ、そんなふざけた理由があるかーっ」
「そう言われてもなぁ。実際2年前から口説き続けて、やっと承諾してもらえたんだぞ?」
にやっと嬉しそうにウィンクしてくる友人に、アシュレイは空いた口が塞がらない。
正直、噂だけじゃなく根も葉もない陰口まで耳にして、すごく心配していたのに。
柢王がどういうつもりでどこまで本気なのか自分には全然わからなくて、情けなくなってくる。
うつむいて黙ってしまったアシュレイの後頭部を、力強い手のひらがポンと包んだ。
「おまえがそこまで俺のこと心配してくれてたなんてな、サンキュ」
昔と変わらず、うまく言葉にできない気持ちをちゃんと汲んでくれる親友にほっとしながらも、
「そんなんで納得すると思うなよ。そいつのこと、俺はまだ認めてねーからな!」
最後まで素直になれないまま、捨て台詞のように言い放ってその場を離れた。

                    *

「…なんですか、あの警戒心むきだしのサルは」
「サルって、ははっ。あいつはカート時代からの仲間なんだ。でもゴメンな、俺がちゃんと
先におまえのこと話してなかったから、あんな態度になっちまって」
「別に、気にしてません。突然の移籍で周りじゅう似た反応なのはわかっていますから」
実際アシュレイだけに限らず、F1関係者すべてが、昨シーズンまではライバルチームにいた
ふたりが今こうして連れ立っている事実に、好奇と注意の目を向けている。
覚悟して決めた道ではあるが、あることないこと騒がれるのは、煩わしくもあった。
「まぁ野次馬の奴らはともかくとして、アシュレイは昔っから正義感が人一倍つえーからな。
俺の立場や今後なんかも気にしてくれてンだろ」
悪気があるわけじゃないんだ、許してやってくれ、と人懐っこい苦笑をこぼす男に、
「そういうあなたは、そうやって人をたらし込むのが得意なんですね」
なかば呆れたような溜め息と視線が返される。
そんな怜悧な表情にも臆することなく、
「おまえも俺にほだされた?」
顔をのぞき込みつつ寄り添おうとする体を、すらりとした腕がさりげなく押し戻す。
「そもそも、あんな説得力に欠ける説明で納得させられるはずないでしょうに」
「や、でもホントのことだし。おまえに一目惚れしたのも、そこから必死に口説きまくって
ようやっと俺のモノにできたってのも、全部そのまんまだし」
取り繕うことなく言い切る男のストレートさに、気を抜くと乱されそうになる内心は伏せて、
「あなたの担当にはなっても、あなたのモノになった憶えはないですけどね」
さらりと受け流す。
そのまま颯爽と歩き出そうとする背に、めげない声が追いかけてくる。
「それもきっと時間の問題だって。まぁ見てな、信じてもらえるまで何度でも繰り返すから。
覚悟してろよ、桂花」
耳元で名を呼び、たっぷりと自信に満ちた瞳が、甘やかに紫水晶の瞳をからめとる。
一瞬、返す言葉につまった隙に、絹のような髪がひとふさ手に握られる。
「仕事上のパートナーとしてだけじゃなくて、おまえの体も、心も、この髪も、その瞳も、
全部まるごと欲しい。ずっと探してたんだ、俺と一緒に走れる奴」
真摯なささやきと、心の奥底まで射抜くほど力強いまなざしに、全身がとらわれそうになる。
(あのとき、絶望に苛まれてF1から去ろうとした吾を、引き止めたのはこの男だった…)
柢王は2年前にはじめて出会ったときから、自分の片腕になってほしいと何度も誘いにきた。
ただ桂花は、恩義のあるマジェスティーズを離れるつもりはなく、柢王の本気は感じつつも
一貫して断り続けていた。
でも、そんな折に、自らが担当していた大切なひとの選手生命が絶たれてしまう事故が…。
自分がもっと慎重にフォローしていれば、あるいは別の選択肢をドライバーに伝えていれば
事故など避けられたんじゃないかと、どんなに悔いても悔やみきれなかった。
(あの李々が、もう走れないなんて…)
ドライバーを支える役割を担うはずが、なんの手助けもしてやれないなんて。
もう二度と、かけがえのないひとを目の前で失うような思いは味わいたくなかった。
だから、この世界から完全に退くつもりだったのに。
『俺は何があっても走り続けて、必ずおまえのもとへ帰る。絶対だ。約束する』
おまえが必要なんだと、代わりはいないんだと、揺るぎない心をひたむきに伝えてくる柢王に
つかまってしまった。
この男の強靭さを信じたい気持ちと、また身近なひとが危険に晒されるかもしれない戦慄との
狭間で悩んでいた桂花を、李々の言葉が後押ししてくれた。
『私はここまで、自分の思うままに走れて幸せだったわ。あなたとふたりだったからこそ味わ
えた喜びや瞬間がたくさんあったのよ。だから、あなたの存在を求めているひとがいるのに、
辞めるだなんて言わないで』
あのとき彼らがいてくれたから、今の自分があるのだ。
(柢王とこの道を進むと決めたからには、全身全霊をかけて守って、支えて、ついていく…)
柢王と桂花、それぞれに絶対の誓いを交わし、新たな喜びと試練の道へ歩みだす。


No.321 (2014/02/02 12:32) title:WINDING ROAD 1
Name:明希子 (119-230-137-48f1.osk3.eonet.ne.jp)

 疾風のように瞬く間に駆け抜けるフォーミュラカー―――
 体の奥底にまで響き渡るエキゾーストノート―――
 サーキット全体を熱くとりまく大歓声―――

モータースポーツの最高峰であるF1の世界を生まれて初めて目の当たりにしたアシュレイは、
圧倒的な音とスピードの迫力に、一瞬で魅了された。
これまで体感したことのない熱気に包まれて、大きな瞳をきらきら輝かせながら、
「うわぁ…! すげぇ…!」
と、言葉にならない感嘆の声を上げて、ただただ魅入っている。
興奮のあまり、頬までぷっくりと紅潮するほどだ。
そんなアシュレイの様子に、思いきって観戦に誘ってみたティアも胸が高鳴る。
「よかった、君ならきっと喜ぶと思ったんだ」
「おう、おまえンちがこんな面白いことやってるなんてな!」
まだ幼いアシュレイはよく知らなかったが、ティアの家は世界に名を馳せる自動車メーカーだ。
高級スポーツカーとレーシングカーのみを製造し、F1にも代々参戦し続けている。
ティアは、自社にとっての誇りともいえるF1の世界をアシュレイも気に入ってくれたことが
嬉しくてたまらない。
車とかレースにどこまで興味を持ってくれるかはわからなかったけれど、自分の大切なものを
大好きな相手と一緒に楽しめたらいいなと、今回はじめて観戦に誘ってみたのだった。
世界最速を競うサイド・バイ・サイドの凌ぎ合いに、アシュレイは一目で惹き込まれたようだ。
「はえーなぁ! かっけーなぁ!」
目の前で熱いバトルが繰り広げられるたび、大はしゃぎで体を揺らしている。
そんな幼なじみに、ティアはドキドキしながら尋ねてみた。
「ねぇ、どのチームのマシンが好き?」
ひそかに望む答えがあって、小さな手は祈るように胸に当てられている。
「う〜ん、どれもカッコイイけど…、おれはあの赤いのがいっとう好きだ!」
まさに願っていた通りの返事に、胸の鼓動がますます弾む。
「ほんとっ? あれ、ウチのチームなんだ。私もあのキレイな赤色がいちばん好きだよ!」
だって、君の髪や瞳みたいに鮮やかで…と、うっとり口の中でつぶやく。
同じものを好きと言ってくれたことに舞い上がっていると、
「よしっ、決めた! おれ、あの赤いのに乗って世界一になるっ」
力強く立ち上がって、アシュレイが宣言した。
突然の展開にティアはびっくりしたが、
「おまえンとこのチームでチャンピオンになって、わくわくさせまくってやる!」
その気持ちが嬉しくて、満面の笑顔でうなずき返す。
「うん、アシュレイなら誰より速くて強いレーサーになれるよ。それだったら私も、君の夢を
支えてあげられる最高のマシンを作って、いちばん近くで応援したい!」
たった今ひらめいたばかりの思いだが、ふたりとも天の啓示を受けたように心がときめいた。
一緒に夢を叶えるんだと、幼い手をぎゅっと握り合って約束を交わしたのだった。

                    *

あれから幾年―――
新シーズンの幕開けを迎える春先、とうとうF1ドライバーの証であるスーパーライセンスを
取得したアシュレイは、念願の赤いレーシングスーツを身にまとってサーキット入りした。
アシュレイが所属するチームは、名門中の名門であるスクーデリア・エメロード。
“レーシングドライバーであれば、誰しもがエメロードで走ることを夢みる”とまで謳われる
F1界を代表するチームだ。
本来であれば、それほどのトップチームがF1初参戦の新人ドライバーをいきなり起用する
など考えられないことだが、様々な要因が重なって、異例のデビューが決まったのだった。
まず一つに、アシュレイがエメロードの若手育成アカデミーの出身で、F1への登竜門である
下位カテゴリーのレースでも早くから頭角を現していた注目のホープであること。
粗削りではあるもののアグレッシブで怖いもの知らずな走りに、エメロードの熱狂的なファン
であるティフォシ達も将来的な期待をかけている。
次に、ここ数年はライバルチームの後塵を拝しており、改革が求められていること。
これまであまたのタイトルや記録を築いてきたが、近年は成績がふるわず低迷しがちだ。
勝てない時期が長引くと、ドライバーや幹部の更迭など不穏なお家騒動まで勃発してしまう。
このまま転落して取り返しのつかない事態になる前に、新しい人材を加えることにしたのだ。
ただ、各チームには2名ずつ正ドライバーが存在するが、一度に2名とも変えるのはリスクが
大きいため、1名は実力者である山凍、もう1名は勢いのあるルーキーを選ぶことにした。
実力も名声も兼ね備えた山凍がいるからこそ、もう1名は冒険できたともいえる。
それでも、F1での実績が何もない新人に、伝統あるエメロードのシートを与えることを渋る
意見が多いのも事実で、アシュレイは初戦から高い成績を求められることは必至だった。
そんな途方もない重圧がのしかかる状況でも、
(絶対にやってやる!)
アシュレイの闘志は燃え上がるばかりで、早く戦いたくてうずうずしていた。
今もまだ朝もやが漂うなか、待ちきれずに起きだしてきたのだ。
急ぎ足でチームの施設へと向かう。
マシンの置いてあるピットガレージに着くと、同じく朝一で来たらしいティアと遭遇した。
まだ他に人影もない静けさのなか、しめし合わせたわけでもないのに行動が重なったことに、
トクンと小さく鼓動がはねる。
ティアは、今期からアシュレイが乗る赤色の車体を、そっと愛おしそうに撫でていた。
そのマシンと同じカラーのレーシングスーツ姿に気づくと、瞳を細めてまぶしげに眺め、
「よく似合ってる…。私たちの夢への第一歩だね」
潤むように感激した表情で手を差し伸べてくる。
けれどアシュレイは、ついにこのときが来たと熱いものが込み上げる気持ちとはうらはらに、
「まだ走ってすらいねェんだから、格好くらいでいちいち騒ぐな」
照れ隠しと開幕戦への張りつめた緊張感で、思わず彼の手を突っぱねてしまう。
ほんとは、おまえの期待に応えられるようにがんばるからって伝えたいのに。
今だってこうして、誰より早く真紅の姿を見てもらえて嬉しいのに、うまく言葉にできない。
アシュレイの大抜擢の裏では、エメロード社の御曹司であるティアが必死になって陰で後押し
してくれたことも、噂で聞いて知っている。
そんなことティアは微塵も顔に出さないけど、まだ何も成し遂げていない自分の力をまっすぐ
信じていてくれることに、内心ではものすごく感謝しているのに。
バツが悪くてそっぽを向いてしまったアシュレイに優しく苦笑しながらも、
「夢への挑戦がいよいよ始まるね。良かったり悪かったり迷ったりするときもあるだろうけど、
君と一緒ならどんな険しい道も乗り越えていけるって信じてるよ」
そう言って、こわばっていた肩を抱いてくれるティアのぬくもりが、とても心強かった。
ひとりじゃないんだと感じられて、体じゅうに力がみなぎってくる。
「…おう、俺の走りを楽しみにしてやがれ」
「ふふ、じゃあ私は、アシュレイが思うままに操れるマシンを作らなくっちゃね」
「…なら俺は、そのマシンで世界一になって、おまえを最高にわくわくさせてやる」
幼い日の約束そのままに、肩を抱く手に手を重ねて誓い合う。
今、ふたりで夢への旅路を走りだす。


No.320 (2013/07/20 05:10) title:少年の日
Name:文旦みっつ (p21057-ipngn100406kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp)


 ―――七月。
 草原の緑が濃くなり、その上を光る風が吹き渡ってゆく
 その風はかすかにひんやりとして、すでに秋の気配も漂わせている。―――夏という季
節の短い草原が 一番美しく映える月だ。
「桂花!」
 草原を駆ける馬上で幼い声とともにカイシャンが笑顔で手を振る。
「カイシャン様!手綱をしっかり持ってねえと危ねえって!」
 疾走する馬の背に一人で乗る子供は幼く、草原の生まれ育ちではない馬空などは、あん
なに走らせて、鞍から転がり落ちやしないかと半ば青ざめながら、おろおろと桂花の隣で
見守っている。
「・・・落ち着け、馬空。バヤン殿が並走されているから大丈夫だ」
 声音は落ち着いているが、桂花も内心は もっと速度を落として走ってほしいと思って
いる。
 知識として、草原の国の人間の習慣を理解している桂花だが、つくづくと思い知らされ
る。
 ここは、人馬の国なのだ、と。
 草原の子供は産まれて腰が据わると、すぐ馬の背に乗せられる。
 両親あるいは年長の者の鞍の前に乗せられて、朝に、晩に草原を移動する。そうしてい
るうちに子供は馬上での姿勢の制御を体で覚えるのだ。
 体が大きくなるころに、父親がよしと判断すれば、そのまま手綱を渡され、一人で馬を
乗り回すことをおぼえる。
 しかも、その乗り方が、また尋常ではない。
 木に布を張っただけの堅い鞍なので、優雅に座って馬を走らせるなどということは出来
ない。
 『立ち鞍』といって、草原の人間は鐙(あぶみ)に全体重をあずけ、鞍をまたぐように
して立ったまま、馬を全速力で走らせる、という、凄い乗り方をする。
 この時代、馬を農耕・運搬、移動の手段として使役することがほとんどだった大陸の他
国の人間の目に、地響きのような馬蹄の音をとどろかせ、すさまじい速度で攻め込んでく
る彼らの姿は 人と馬が一体化した怪物に映ったことだろう。
「―――桂花!」
 草原の光と風を体いっぱいに受けて、馬上でカイシャンが笑っている。
 笑い声が吹きわたる風に乗って草原に響く。 カイシャンは一人で馬を乗り回すことを
ゆるされたことが嬉しくてたまらないらしい。
 高い丘陵がそこここに連なるが、そこに生えているのは草と低い灌木だけである。見渡
す限り地平線の草原の中を、川はきらきらと光りながら蛇行する。
 水面の反射を背に受け、草原の生命そのもののような少年の笑顔が桂花に向けられる。
 今は地下に眠る恋人の、かつての笑顔の面影を探してしまわないよう桂花はまぶしいよ
うに目もとに手をかざした。
    
    
 陽が落ち、バヤンたちの泊まるゲルの持ち主が羊を屠り、宴を開いてくれた。
 長時間馬を乗り回した昼間の疲れがいっぺんに出たのか、カイシャンは食事の途中で頭
が揺れ始めた。まだ飲み続ける気満々の男たちを とっとと見限って桂花のゲルに連れて
ゆくと、着くなり眠ってしまった。
 少年の健やかな寝息と寝顔を見守りつつ、書物を広げたり、薬を調合する桂花の耳に、 
酔った男たちの陽気な笑い声 羊や牛、馬たちの鳴き声がとぎれとぎれに風に運ばれて届
く。
 やがて長く騒いでいた男たちもようやく寝静まった夜半、雨を伴わない雷雲がゲルの上
空に現れた。
 雷光と轟音に、少年は目を覚ますどころか、かすかな笑みさえ浮かべて、深く寝入って
いる。
 明かりを落としたゲルの中、桂花はカイシャンに寄り添って横になっていた。
 風はゲルを包む布地の輪郭を丸くなぞるように吹き渡っては、過ぎてゆく。
(雷、風、・・・―――)
 傍らに眠る少年の 守護の象徴―――
 ・・・穏やかな、震えるほど平和なこのひとときを桂花は何かに感謝すらしたいと思う。
 そしてその直後に思い知る。
(いつまでこうやっていられるのだろうか―――)
 馬に一人で乗れるようになれば、ほぼ一人前だ。
 少年の寝顔を桂花はそっと見る。
(・・・ああ、大きくなった―――)
 少年の成長に、残された時間の少なさに、桂花は胸に重苦しい つかえを感じる。
 彼と未来に行くことはできない。それは最初からわかりきっていること。桂花に出来る
のは、カイシャンの『今』を守ることだけだ。
(もう少し――― )
 時が止まればいいとは思わない。けれど、少しだけ、もう少しだけ、おだやかに過ぎて
ほしいと桂花は願う。
「―――・・・」
 何度目かの雷光と雷鳴の下、桂花の感覚に 何かが触れた。
 音もなく身を起こすと、桂花はゲルの上部に目をやった。ゲルの真上には換気兼採光口
としてゲルの骨組みに布を張らない部分がある。そこから空が見える。
 有事の際の用心として、桂花はその上部の骨組みの部分に細工を施していた。
    
    
 風に草原の草が波打つ。その草をかき分けるようにして、桂花のゲルに近づいてくる獣
がいた。
 やわらかい子供の血肉のにおいが獣を引き寄せたのだろうか 雷光の下を接近してくる
のは、一頭の巨大な狼だった。 銅貨のように光る双眸はゲルの出入り口のはためく布の
奥に向けられ、ぞろりと牙の生えた口から血の気配を漂わせる息を吐いて舌が長く垂れ下
がっている。
 その狼の進行方向に 音もなく上空から降りてきたものがあった。
 雷光が視界を青白く染め上げる。
 牙をむきかけた狼が、本能的に身を低くし、背中の毛をそそけ立たせた。
 雷光の下、紫銀の双眸が光る。吹きわたる風に白い長い髪を生き物のようにうねらせて
立つ、人ならざるもの―――
 雷鳴が響き渡る。
 びりびりと大気が振動する中、光を失わない紫銀の双眸が狼を見下ろす。
 そして、低く それはつぶやきにも似た声だったが、狼の鼓膜に雷鳴の振動よりもはっき
りと響いた。
「子供の眠りを さまたげるな。去ね」
 ―――狼が人の言葉などわかるはずもない。しかし狼は桂花の足元に完全に屈服した。
 桂花は狼の眉間あたりに軽く触れ、行け、と促した。
 狼が遠く走り去るのを見届け、身をひるがえしてゲルの中に入ろうとした桂花が、目を
見開いた。
 ゲルの出入り口の布が風に大きくはためいている。
 はためく布の奥に、夜具の上に座ってこちらを見ている子供と目が合った。
「・・・ ・・・カイシャン 様?」
 魔族の姿を見られただろうか
 しかし子供はゲルの外に立ちすくむ桂花にむにゃむにゃと言葉にならない何かをつぶや
き、コテンと横になって再び眠ってしまった。
   
   
 翌朝、気持ちよく目覚めたカイシャンは 今年生まれた仔馬を見に行くというバヤンに
ついて、朝駆けに出かけた。
 寄ってきた仔馬のたてがみを撫でてやりながら、バヤンの隣で さまざまな毛並みの仔
馬たちをカイシャンは面白そうに眺める。 良く走る丈夫な仔馬は草原の民の財産だ。 
仔馬はじきに大きくなって戦士を乗せて走る。
「カイシャン様、昨日はよく眠れましたか? 夜中に雷が鳴ったから眠れなかったのでは
ないですか?」
「雷が鳴ってたのか?よく寝てたから気づかなかった」
 バヤンが我らが王子は豪胆だ、と笑う。 雨を伴わない雷雲が出る そんな夜は、雷光
を頼りに狼が家畜を狙うのだそうだ。
「実際、昨夜はあちこちで子羊や仔馬が狼に襲われて大変だったそうです」
 この仔馬たちは運が良かったのですよ、とバヤンがカイシャンのそばの仔馬のたてがみ
を撫でた。 それで思い出したのですが、とバヤンが懐を探り、昨夜世話になったゲルの
家族からもらったお守りですが、ぜひ王子に持っていてもらいたい、と素朴な紐にくくら
れた白い小さな塊をカイシャンの手のひらに乗せた。狼の骨だという。
「狼の骨は魔よけになるそうですよ。」
「・・・・・」
 狼の骨をてのひらで転がしながら、カイシャンは 昨日の夢を思い出した。
(・・・不思議な夢 だった。)
 ―――狼を従えた、長い白い髪の、不思議な肌の色をした人が、カイシャンの名を呼ぶ。
ただそれだけの夢だったのだが
(・・・なんだか、とても懐かしいような・・・・・)
 懐かしいと思ったのは、昔、一度夢で見たことがあるからだ、とカイシャンはようやく
思い出した。
 小さいころ、病気で命が危なかった(らしい)時に、夢で見た。
 その夢のあとで、カイシャンの病気は治ったのだ。(命懸けで治療してくれたのは桂花だ
ったのだけれど。)
 あの時は、夢の中で 風に乗って空からおりてきて、怒ったような困ったような顔で、
カイシャンに何かを言っていた。
 普通なら、怖いと思うのだろうけど、なぜか少しも怖くなかった。
 とても きれいだ と思ったからかもしれない。
 桂花と同じ、紫色の瞳だったからかもしれない。
(・・・・・もう一度 逢いたい )
 カイシャンの夢の中に現れる、不思議な、―――人。
(・・・夢の中で 逢えるなら――― )
「カイシャン様―――」
 名を呼ばれて振り向けば、桂花と馬空が馬を並べてこちらに向かってきている。桂花の
髪が草原の光で金の色に光る。馬空が馬上で大きく手を振っている。
 バヤンがカイシャンのそばを離れ、二人の方へ行きながら何か言っている。
 馬を下りた二人が、バヤンとともにカイシャンの方を見て笑った。
「・・・・・」
 ―――桂花がいて バヤンがいて 馬空がいる みんないる。 魔物が入る隙間なんて
ない。
(・・・でも、夢の中で 逢えるなら――― )
 心の中でバヤンに謝りながら、今年生まれた仔馬のたてがみに お守りをそっと結びつ
けてやると、カイシャンは三人の待つほうへ笑って駆けだした。


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