投稿(妄想)小説の部屋

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No.299 (2001/07/10 01:30)投稿者:じたん

誘惑 1

 なんとなくいつもより丁寧に髪も身体も洗うと、絹一はワイルドローズのバスミルクを落としたバスタブの湯の中につま先からそっとつかった。
 まだ、この広い浴槽に慣れることが出来なくて、いっぱいに伸ばした身体がなんだか心もとない。
 ゆるく纏わりつく乳白色の湯を押し出すように絹一は両手を突き出した。
 いささか、キーボードを叩きすぎたせいで、少し張ってしまった自分の腕を揉んでみる。
(…やっぱり…力の加減とか、コツがあるんだろうな…)
 最近はめったに無かったが、鷲尾と一緒に風呂に入ることもある。
 広い浴槽の中で、その胸に自分を抱き、こうして腕を揉んでくれた。
 初めて感じた安らぎの夜を、絹一は今でも鮮明に憶えている。
 なにも隠すことなく、湯の中で鷲尾に凭れる時間が絹一はとても好きだった。
 自分からすすんでねだる事はめったに無かったが、いつの間にか自分の目は鷲尾を追っているのか、絹一が口にするよりも前に鷲尾の方から誘ってくるのが常だった。
 熱い湯の中で2人で過ごす時間はとても穏やかなもので、すっかり安心しているからか、いつもより口の軽くなる事もあった。
 仕事の愚痴などは、お互いに言わない主義なので、そういった意味で甘えたり、また、甘えられたりすることはなかったが、なにかの折に、ふっと浮かんだ忘れられない感情を、このときだけは素直に鷲尾にぶつけることの出来る絹一だった。
 ぼんやりしていると、いつの間にか鷲尾のことばかり考えてしまう。
 どこに目を向けても、彼の存在を示すものが視界に入るので仕方のないことだったが、今に絹一には少々辛かった。
 少しぬるくなってしまった湯の中に、熱い湯を足すと、絹一はミルク色のその中に、勢い良くもぐった。

 のぼせてしまったかもしれない・・・。
 少々クラクラする頭を洗面所の鏡の前で振りながら、絹一は頭からバスタオルをかぶった。
 濡れた髪を丁寧にふいていく。
 また少し長くなった。別に伸ばしているわけではない。美容院にも月に一度は通っている。
 それでも、今は肩を隠す程度のところまでは伸びていた。
 理由は…なんとなくわかっている。
 本人の口からはっきり聞いたわけではなかったが、鷲尾は絹一の髪が気に入りのようだった。
 このまっすぐな髪にあの長い指を絡めてもてあそんだり、そっと撫でたり。
 唇を重ねてくるとき、きまって手の中で握りこんで、感触を楽しんだり…自分の身体の中で、鷲尾が一番振れてくる場所。
 大きな手で包み込ようにされると、とても気持ちがいいことを、今の自分は忘れかけてしまっていた。
 鏡の中の自分をぼんやり見つめる。…うっすらと小麦色に焼けた肌。
 つい5日ほど前まで、絹一はスペインにいた。
 もちろんビジネスだ。
 6月の中旬に日本を発って、約1ヶ月間向こうで過ごした。
 仕事で出向いたのだから、当然観光などはできなかったが、それでも、最後の2日間、思いがけず降ってわいた休暇を、絹一はマヨルカ島で過ごした。
 太陽の島と呼ばれているその島は、空がからりと乾き、サングラスをかけないと歩けないほどの眩しい光であふれているところだった。
 中世の余韻を残す街並みはとても美しく、一歩路地に入れば、歴史の迷路に迷い込むような錯覚を起させた。
 強行軍だった旅の間、常に他人といたせいか、そのときは無償に一人になりたかったのを憶えている。
 休暇をマヨルカ島で過ごすことに決めたのは、クライアントが偶然そこの出身で、良いホテルを知っていると話に聞いていたからだった。
 1日、10組の客しか受け入れないというそのホテルはとても人気があるところだそうで、陽気なオーナーは絹一を暖かく迎えてくれた。
 夏の日差しはとても暑く、日中は街中がシエスタの時間になるので、日がだいぶ落ちてから、あてのないまま、絹一は散策にでた。
 カテドラルの裏手、路地が入り組む旧市街に連なる屋敷通りを抜け、公園のベンチで暮れていく夕日を眺めて…なんとなく立ち寄った、一見そうは見えない老舗だという靴屋で、とてもはきやすそうな皮のサンダルを見つけ、なにも土産を用意していなかった鷲尾のためにそれを購入した。
 ホテルの戻る前に、なんとなくアルコールが欲しくなって、カクテルレストランに入ってみた。
 そこはカップルばかりで、安心できると聞いていたから。
 優しく灯されたロウソクの火と南国の夜を盛り上げるようなトロピカルカクテルは、絹一をとてもリラックスさせた。
 ほろ酔い気分のままホテルの戻った絹一は、テラスで食事を取ると、すぐにシャワーを浴びた。
 海の底を思わせるようなバスルームで汗を流し、髪も乾かさないまま、ベッドへ倒れこんだ。
 素肌に触れるべッドリネンは、ひんやりとしていて、火照った絹一の身体にはとても気持ちが良かった。
 自分以外だれも横たわらないベッドの中で、なにも纏わず眠るのは、絹一には初めてのことだった。
 こんなとき、傍らには自分を包む素肌があるのが、いつのころからか当たり前になっていたから。
 そんなふうに考えて、その夜は眠れなかったのを思い出す。
 なんだか身体が熱くなってしまって……スペインでのことをぼんやり思い出しながら自分がまだ裸でいることに気付いて、絹一はあわててパジャマをはおった。
 どうやら本当にのぼせてしまったらしい。
 身体からなかなか熱が引かない。部屋の中はクーラーで程よく冷えているというのに。
 頭からかぶったバスタオルで自分に風を送りながら、絹一はリビングに移動した。
 ソファに座ろうとしたところで、鷲尾の寝室のドアが目にとまった。
 今夜も自分は一人だろうか。
 スペインの最後の夜から、自分は鷲尾のことばかり考えている……


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