投稿(妄想)小説の部屋

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No.13 (2000/04/18 04:51) 投稿者:

春の雨

 深夜の帰宅だった。
 マンションの近くに生えている大きな桜の木が、4割ほど新緑に侵略され、夕方から降り出した雨に無残に濡れていた。
 絹一は、駐車場に黒のコルベットがとめられていないのを目の端で確認しながら、小さくため息をつく。
 もう何日も、正確には部屋で一緒に花見をして以来、会っていない。
 別に、会わなきゃいけない理由もないんだった・・・などと考えながら、真っ暗な部屋の鍵を開ける。靴を脱いだとたん持ち帰った書類を重く感じて、絹一は鞄ごと床に座り込んだ。

 翻訳は自分でも向いていると思う。
 通訳と違って、誰にも会いたくないほど疲れた時に、イタリア語やフランス語の文面に向かって愛想笑いする必要もないし。妙な誤解の原因となるミスコミュニケーションも生まれない。基本的に独りなのだ。
 ただ、一冊の本をまるごと訳すのは、マラソンに例えれば 42.195Kmを走るのと同じで、ペース配分こそが力量となってくる。最初から突っ走りすぎても後で息切れするし、ラストスパートにすべてを懸けるのも危険だ。
 このところ連日会社に泊まり込むぐらいの勢いで仕事をしていた絹一は、どうも初めからトップスピードでゴールのテープを切った感が否めない。って、もしかして翻訳もあまり向いてないんじゃないか・・・。 そんなことを考えながら。
 日本語への変換は来週にして、とりあえずアウトラインだけでも掴んでおこうと持ち帰った書類を取り出す。絹一は気分が鬱々としてくるのを止められなかった。
 新鮮な空気でも吸おうと、窓を開けるため立ち上がると、一瞬軽いめまいを感じる。そういえば昨日は一睡もできなかった。
 降り込んだ雨が気持ちよくて、絹一は窓枠にもたれながら、殺風景な部屋を見廻す。フローリングの中央には、アルファベットですき間なく埋め尽くされた書類がばらまかれ・・・あとは、とくに、何もない。部屋の持ち主の特性を端的に表しているなと思って。 
 ふと棚の上に置かれたアドマイザーが目に入った。
 黒衣の貴婦人・・・
 瞬間、キスしてほしいところ全部につけろと、言ったあの人が思い浮かぶ。甘い声。
 頼りたくなかった。この香りにさえも。甘えてはいけない気がした。
 香りは・・・香りはいたずらに過去を呼び覚ます。
 黒衣の貴婦人の変わりに、絹一は、棚の一番下の引き出しに飛びつく。
 ガチャンガチャンと嫌な音を立てて、引き出しに色とりどりの甘やかな香りをこめた小瓶が現われる。ざっと1ダースはあるだろう。もらいものの香水瓶を詰めた小引き出し。
 絹一は、力まかせに引き出しを引っ張り出すと、さっき開けた窓辺へと引きずった。
 ペアで香水をつけようと平気で女物の香水を突き出してきた人もいた。 
 東洋の魔女という意味の香りだ、君の内の魔に合うよ・・・と差し出した人も。
 どんな愛の言葉も君の心には届かないんだな、まるで石の心だ。と囁いた人が渡した、フルール・ド・ロカイユ<石の花>の瓶。
 バラの透かし模様の入ったその透明な瓶を取り出す。絹一は蓋を開け、黄色い液体をベランダに捨てた。なにもかも捨ててしまいたい。強烈な香りを放ちながら、液は雨と一緒になってベランダの隅の排水溝へと流れてゆく。
 フラッシュバックする場面を頭の中から振り払うように、絹一は次々と、それら引き出しに詰まったボトルを開けて、中身をぶちまける。ピンクの液体もブルーのも、その上にグリーンもイエローも、あらゆる色がミックスされてベランダに小さな池を造る。立ち上ってくる吐き気を催す匂いに耐えられなくなって、絹一は、がくっと膝をついた。
 ベランダに倒れ込むと混ぜ合わされた匂いの渦を至近距離で感じて息ができない。雨に打たれるまま、じっと息を殺す。でも忘れたいシーンは、なにひとつ雨に流されることもなく、頭の中で渦巻いた。
 絹一は必死で頭をもたげようとしたが、見上げても空の雨雲のすき間にも月はなくて、雨粒が目に口に入り込む。涙なのか雨なのか、もう分からなくなって・・・。ぐっしょりと濡れた髪が首筋にまとわりついて、頭痛と吐き気で意識が遠のいてゆく。

 そのとき、聞き慣れたエンジン音を耳にした。
 ベランダの隙間から見える桜霞の向こうに、ヘッドライトを光らせた、黒い車。夜の闇よりも深い色をしたコルベットが緩やかに駐車場へと向かってゆく。一瞬、運転席の男と目が合った気がして、絹一はフッと息を吐いた。
 助けられた気がした。救われることを望んでいたわけじゃないけど・・・。
 
 とぎれとぎれの意識のなかで、あせってドアの鍵を開ける音が聞こえ、大股で部屋を横切って何か叫びながら飛びついてくる体温を絹一は感じた。
 遠慮なく抱きしめられて、頬をひっぱたかれて・・・痛くて薄く目を開ける。
「鷲尾さん・・・。」
 香りよりも、この現実感のある腕になかでなら、絹一は安心して意識を手放せそうだった。


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