投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
このノリは何だろうと思いつつも、桂花は楽しかった。
ほんのわずかな時間だというのに、心が軽くなっているのを感じる。
ただ、不思議ではあった。
ここまでしてもらうだけの何かを、自分は持っていないはずで、これから先もそんな価値が生まれるとも思えない。
むしろ関わっただけで、迷惑を被る可能性が高いはずなのだ。
この短い時間で、桂花は一樹に好意を抱いていた。
できれば、危ない橋を渡ってその身を危険に晒すようなことは止めて欲しかった。
それに、桂花はまだ、無条件で与えられる他人からの好意を信じ切れないでいる。
魅力的な申し出であるだけに、とても複雑な気持ちだった。
「ありがたい……いえ、吾にはもったいない申し出です。
そうなったら、と考えられただけで楽しいと思えました。ですが」
「ストップ」
桂花の辞退の言葉を、一樹がやんわりとした口調で遮った。
「きみは、余計なことに気を回さなくて良いんだ。遠慮せずに甘えておいで」
「……どうして? そこまでしてくださるんですか」
「きみが気に入ったから、じゃいけないのかな?」
目を細めた一樹の雰囲気が変わった。
桂花はぞくりとしたものを感じ、息を呑んだ。
それまで一樹を包んでいたさらりとした空気が急に艶めいて、匂いたつような妖しい色に染まったようだった。
「先生?」
「さわっても?」
言葉と同時に、手入れの行き届いた手が伸ばされる。
断られる可能性などつゆほども考慮に入れていないその動きを、桂花はごく自然に受け入れた。
うろたえるほどうぶではないし、一樹に対する嫌悪感もなかった。
ただ、少し驚いた。
一樹の手はそっと桂花の頭に触れ、長く伸ばされた髪を絡めとっていく。
「きれいな髪だね。こんなに色素の抜けた髪は珍しい」
「そうでしょうか」
首を傾げた桂花に、そうだよと一樹は微笑する。
「きれいで、頭の良い子は好きだよ。できる限り、力になってあげたくなるね」
「たった、それだけで?」
「いけないかな? それに――」
指に絡めていた髪をそっとといて、一樹の手が離れていく。
肌には触れなかったその手を、惜しいと思った。
「これでも俺は教育者で、ここは学校だから。知識を求める生徒には助力を惜しむべきじゃない。
水を飲みたい馬にはいくらでも与えてあげる。ここはそうあるべき場所なんだ」
「外国人にも?」
「関係のないことだ。理事長と校長の両名が認めた時点で、本来なら生徒の人種国籍の一切は不問にされるはずなんだよ。
この学校は本来、どこの国にも属さない一種の治外法権を認められた場所なんだ。
だから四国の中央に位置していて、原則どの国からの干渉も受け付けない……少なくとも建前上はね」
「吾は、例外なんです」
「知ってる。理事長も頭を抱えていたよ。東国王族からの直接の依頼だ。無下にはできない。
それでも、学内での外部からの監視は許さなかったし、敷地内での行動の自由は保障されたはずだね」
「はい」
一樹を包んでいた妖艶なオーラは、幻のように消えていた。
「だからきみは、堂々とここで好きなことをしても良いんだ。
俺が触れにいっても平気な生徒なんか滅多にいないから、きみの存在はありがたい」
「あの、いつも生徒にあんなことをなさるのですか?」
恐る恐る訊いた桂花に、一樹は首を振った。
「まさか。普通に教鞭をとっていても問題が起こるんだよ?
故意にあんなコトをしたら、とりあえず理事長が卒倒すると思うな」
とても楽しそうな一樹は、絶対に何かを思いだしている。
「参考までに……どんな問題が起こったのか、お訊きしてもかまいませんか?」
「礼儀正しいね。そんなに遠慮しないで?」
「いえ、そういうわけには」
「良い子だ。……俺が起こしたというか、生徒が暴動を起こしかけたというか。
俺は国語が担当だったんだけど、受け持ったクラスの成績がとても良くてね。
平均点にして定期考査で20点近く、他のクラスに差を付けてしまった。これがちょっとまずくてね。
というのも、俺が受け持っていたクラスは、どの学年も下位クラスだったんだ」
そこまで聞いて先を予想できた桂花は、思わず苦笑した。
これほど求心力のある教師が真剣に指導すれば、苦手教科であっても真面目に取り組む生徒が増えるだろう。
それでもなおやる気を出せないでいる生徒には、個別対応で丁寧に指導したとしたら。
この目に楽しい顔が間近にあって、自分の為だけに問題の解説などしてくれたら。
女生徒はおろか男子生徒だって簡単に落ちるのではないか。
そうしてクラスが一丸となって、あらかじめ範囲の決まっている定期考査に臨んだのだとしたら、それほど意外な結果ではないだろう。
しかし、上位クラスの連中には面白くない話であったはずだ。
担当教師が一樹であったなら、と思ったに違いない。
「それで、上位の生徒達はどうしたんでしょう。担当教師を替えてくれと校長に直訴しましたか?
それとも実力行使で授業をストライキしたとか?」
「国の干渉すらはねつけるような学校が、そんな甘い手段に折れると思うのかな?」
……そういえばそうだ。では、何が起こったというのだろうか。
「穏便に、風波をたてないように動こうとはしたんだろうね。まず、俺の授業の時に、妙に机が増え始めた。
自分の授業をさぼって潜りこむ生徒が出てきたんだ。
でも教室の広さには限界があるからね。すぐいっぱいになって、そうしたら今度は……」
「まさかとは思いますが……生徒がつかみ合って椅子取りゲームでも始めましたか?」
「よく分かったね?」
充分広いはずの教室が不自然に机でいっぱいになり、その中でひしめき、
押し合いへし合いで席を奪い合う中高生の姿を想像した桂花は、軽い目眩を覚えた。
「誰も止めなかったんですか」
「初めのうちはみんな慎ましくてね。俺も、まぁ、ある程度までは見て見ぬふりをしていたよ。
どんな理由にせよ、学びたいという気持ちは大事だからね。
それがエスカレートしてきて、他の先生から苦情が来るようになって、
さすがにまずいと思っていた矢先だったんだけど、
対応が遅れてしまった」
「……」
「困ったことに怪我人が出てしまってね。
学期途中で異例なことに、人員配置の見直しが行われたんだけど……
結局は俺が全部のクラスを回らないと誰かが納得しないだろうとトップが判断して。
俺の意志は脇へ押しやられたまま、気付いたら資格を取り直して保健医をすることになっていて、
今では学内の共有財産扱いだよ」
ここまで聞いて、ついに桂花は吹き出した。
声を上げて最後に笑ったのがいつなのか、もう覚えてもいないというのに。
「ずいぶん、苦労なさって、いるのですね」
「まったくだ」
肩をすくめた一樹と目が合い、桂花はまた笑った。
柢王が戻ってきたのはその時だった。
「ずいぶん楽しそうだな」
声を聞いて初めて、保健室に柢王が入ってきたことに気付いた。
無防備に笑っていた自覚のある桂花は、それを見られたと知って、顔を強張らせた。
らしくもなく気を緩めてしまっていたことに半ば呆然としながら、歩み寄ってくる柢王を見上げる。
「あの……」
「まだ一樹と話があるのか?」
「いえ……雑談をしていただけですから」
「そか。んじゃ、もう遅いし、連れて帰っても良いよな?」
桂花の頭越しに一樹に声を投げた柢王に腹が立ったが、顔には出さない。
「それは、俺じゃなくて桂花に聞いた方が良い。決めるのは彼だよ」
「あー、悪ぃ。無視するつもりじゃなかったんだが……ごめん。してたよな」
「いえ」
短く答えた桂花に、柢王は困ったように自分の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜてその場にしゃがみ込んでしまった。
一気に男の目線が下がる。
「悪かった。……遅いし、家まで送るから、一緒に帰らないか?」
下から見上げるようにして頼まれれば、謝絶しにくい。
しかし――
「吾には、校門まで迎えが来ていると思います。車なので……」
迎えというよりは、それは監視なのだが。
学校から一歩でも出れば、桂花には一切の自由が許されていないのだ。
「そうなのか」
傍目にも沈んでしまった男に、桂花はどうしていいのか分からない。
そんなに落ちこむことではないはずなのに。
なぜか、自分が悪いような気持ちになってしまうではないか。
「だから……校門までは、一緒に行きます」
思わず言ってしまったが、それを聞いて顔中で笑う男を見てしまっては、後悔の念も湧いてこなかった。
ふたりは揃って一樹に礼と退室を告げ、暗くなった外に向かって歩き始めた。
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