投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3
ガッシャーン!!
と、大きな音がしたのに続けて、アシュレイの、この世のものとは思われない声が響き渡った。
「アシュレイッ!」
玄関にいたティアは顔色変えて、廊下を走った。息を切らせて台所へと飛び込む。
「アシュレイ、どうしたのっ?」
暖簾払いのけて叫んだティアの前には、床に砕けた大皿に飛び散った野菜、それに金色に輝くから揚げをぼうぜんと見つめ、へたり込んでいるアシュレイの姿だ。
「アシュレイッ! 大丈夫、けがしてないっ?」
アシュレイの側に膝をつき、その肩をゆさぶるティアの視界の向こうで、オブザーバーたちも声も出ないで瞳を見開いている。
一瞬のことだった。ティアの帰宅に勢いよく振り向いたアシュレイの手に持っていた菜箸がから揚げ載せた皿のふちにぶつかって、あっという間に皿は床に落ちて砕け、せっかくできたから揚げは飛び散ったのだ。
「ねぇ、アシュレイ、しっかりして! けがしてない?」
尋ねるティアに、アシュレイはぼうぜんとしながら、
「……っかく──」
ふいに、焦点の戻った赤い瞳が揺れて、
「……せっかく、俺…おまえに、から揚げ、うまくできたから……」
呟いたアシュレイの声が、悲鳴のように高くなる。
「俺っ、今日は、ちゃんとできたから──今日は、ほんとにちゃんとできたから……おまえが、恥ずかしくないように、今日はちゃんとできたのに……──なのにっ、なのに最後にこんななんて……俺なんかやっぱりだめなんだーーーっ!」
うわあぁっと床に突っ伏したアシュレイにティアはあぜんと目を見張る。
「アシュレイ、アシュレイ、ねえ、顔上げて。危ないから、ね、落ち着いて!」
「お、落ち着いてなんかいられるかっ……せっかく、せっかく作ったのに──やっと、ちゃんとできたのに……俺なんか最低だっ! 飯もまともに作れないっ、役立たずな嫁なんだっ!」
丸くなった背中が震えて、くやしい悲しいくやしい──叩きつけて叫ぶよりはるかによくわかる。ドアの向こうで桂花も涙目だ。団地の部屋の壁紙すすけるくらいにあんなにがんばったのに……!
「アシュレイ──」
ティアはつぶやき、そして、息をついた。震えている赤い髪に手を当てると、優しい声で、
「そんなことない。私は世界一の奥さんをもらったって、いま改めて思ったよ」
アシュレイが涙声で、嘘つけっ、と叫ぶ。うずくまったまま、
「そんな、気休め聞きたいんじゃないっ、俺は、俺はおまえにほんとに……ほんとに──」
こんな嫁を選んだとティアが笑われることがないように、ティアが恥ずかしくないように──と。
声に出さない気持ちを感じ取ったように、ティアは微笑んだ。きれいな顔に、まぶしいものでも見るような笑みが浮かんで、
「気休めなんか、君には言わないよ。君はいつでもストレートに来るんだから、私が遠慮してたらいつも負けっぱなしだろ? 私はいつも君と出会えたことを幸せだと思ってる。君が本気で笑ったり怒ったりする姿を見ていると、私も心から曇りがなくなるような気がする。そこそこに幸せ、なんてないんだって、君と出会ってからわかったよ。君といると私は幸せだ。だから、君のことを恥ずかしいなんて絶対に思わないよ」
静かだが、優しい言葉に、アシュレイの震える背中がかすかに動く。それでも、まだ涙声で、
「……嘘、つけ──」
「嘘じゃないよ」
「……飯もまともに作れなくてもか?」
「君の作るご飯はいつもおいしいよ」
「そんなの嘘だ。それに他の家事だって俺、母さんや桂花みたいにちゃんとできないし、おまえの嫁らしいことなんかなんにもできないじゃないか」
「そんなこと言うなら私だって、どこが君の亭主らしいの? それに──」
ティアは微笑むと、言った。
「君は私の大切な人なんだから、自分のこと役に立たないなんて言わないで。それは君自身にも、私にも失礼だよ」
「──ティア……!」
アシュレイが、驚いたように顔を上げる。濡れた瞳が、目の前に、優しく微笑んでいる瞳を見つめる。ティアはそれにとろけそうな笑顔を見せて、
「君が好きなんだよ。君は私の宝物なんだからね」
「……ティア──」
「──おまえたち、せっかく盛り上がっているところを何だが」
と、ふいに背後から聞こえた声に、ふたりは飛び上がった。あわてて振り向くと、そこには暖簾かきわけ、こちらを見ている部長の、面白そうな、やれやれと言いたげな、ふしぎな笑顔。あっ、と叫んで立ち上がったふたりに、
「あわて者のツガイはあわて者、客を置き去りにして消えるとは、ティアランディア、おまえも子ザルといい勝負だな」
「す、すみません、部長。あわてていて、つい──」
「それに子ザルも子ザルだ。聞いていれば飯も作れないだめな嫁だとかなんだとか、それは一体誰に対する礼儀だのつもりだ? 私は子ザルの元気な顔を見に来ただけだぞ。歓迎する気があるなら、客は笑顔で迎えるものだ」
言われて、アシュレイが真っ赤になる。あわてて、すみませんっと頭を下げかけ、
「ティ、ティアっ、靴っ!」
「あっ!」
ティアも自分の足元を見て、目を見張る。部長が笑いながら首を振り、
「見るといい、子ザル。ティアランディアは会社では実に有能だが、子ザルのことでは考えられないことだってする。おまえたちは似合いの夫婦ではないか」
「……部長──」
アシュレイの瞳が、悔し涙でなく、潤む。
「アシュレイ、ここは私が片付けるから、君は部長を案内して」
「でも──」
「夫婦なのだからするということは任せればいい。それに、ティアランディアは靴を脱がなくてはならないからな」
と、からかうように笑った部長に、アシュレイは目を見張る。その笑みと、そして、この上なく優しく微笑んでいるティアの顔を見比べると、
「──はいっ!」
元気いっぱい、笑って頷いた。
廊下を行くアシュレイと部長の、
「でも、部長、その子ザルはやめてください」
「では赤ザルか? それとも赤毛ザル?」
「って、なんでそんなにサルっ?」
うっきーっと怒る声と笑い声を聞きながら、ティアはホッと息をついて、靴を脱いだ。勝手口にそれを出そうとして──見守っていたオブザーバーたちに気づく。
「カッコイイ亭主じゃん。あんなの素面じゃなかなか言えねぇよな。尊敬したぜ」
目が合った柢王が笑って言う。ティアはそれに心からの笑みを見せて、
「ありがとう」
言った言葉に、桂花は潤んだ瞳で頷き、三河屋さんはちょっと複雑な、だが優しい顔で微笑んだ。かれらが去って行くのを見送って、台所を片付けながら、
「君に秘密がまたできちゃったね──」
特訓に気づかないふりをしたこと+本当は見守ってくれる人たちがいたこと。
「でもそれは、いい秘密、だよね」
ティアはにっこり微笑んで、廊下を急ぎ足でアシュレイたちのいる部屋へと向かったのだった。
店に電話したら、アランからこてんぱんに怒られたナセルがあわてて配達に戻るのと別れて、桂花たちは家に向かってぽかぽか陽気の道を歩いていた。
ため息をついた桂花に、柢王が笑って、
「おまえも安心したよな。お疲れさん」
眠ってしまった冰玉をよいしょ、と肩先に担ぎ上げ、もう一方の手を桂花に差し出す。桂花はちょっと頬を赤くしながらもその手に手を載せた。
「料理はなんでしたけれど、部長さんには可愛がってもらっているようですし、うまくいったと思っていいですよね」
言うのに、柢王がバーカ、と笑う。
「うまくいくいかねぇが問題じゃねぇよ。自分の嫁さんが、自分や自分の客のために一生懸命になってくれてんのが嬉しいの。出来不出来じゃなくて、そういう、人のために尽くせる姿に、部長だってティアのこと、いい嫁もらったなって思ったんだよ」
それに、俺もな、といたずらっぽくウインク寄越す亭主の顔を、桂花は瞳を見開いて見上げる。
ハメを外させれば向かうところ敵なしの能天気な亭主、なのだが──桂花が育児に疲れてうとうとしていたりする時には、そっとブランケットをかけて、皿洗いしてくれていたり。休みの日には子守りを引き受けて『おまえもたまには気晴らししてこいよ』と笑顔で送り出してくれる。
忙しく見えても、本当に大切なことは、ちゃんとみていてくれている。ティアも、きっとそうなのだろう。
桂花は微笑んだ。片手に冰玉、片手に桂花。仕事でふさがっていない時には、その手はちゃんと自分たちのものなのだ。
そっと、よりそってみた桂花に、
「ん? なに、うちの旦那は世界一だなぁって思ってる?」
亭主はふざけたようにいいながら、その手を肩にまわしてしっかり引き寄せる。桂花は笑い、
「うちの旦那様はうぬぼれが強い楽天家だなぁ、なんて思っていました」
優しい瞳で見上げると、世界一男前な亭主は笑いながら肩をすくめ、
「んっと、そういうとこすなおじゃねぇもんな。ま、冰玉も朝まで起きないだろうし、今夜は久々ゆっくり話でもしようぜ」
ベッドのなかで、さ。ささやいた亭主の手の甲を軽くつねりながら、桂花は幸せそうな笑顔で小さく頷いた。
*
「なぁんだ、お姉ちゃんって、ほんとに大雑把なんだから」
呆れたようなネフロニカの言葉に、隣にいたパウセルグリンが首を振って、
「そんなこと言ってはいけないよ、ネフィ。人にはそれぞれ得手不得手があるんだからね」
無人島に行った家族が戻ってきた夕食の席───居間のちゃぶ台囲んで、アシュレイはようやくみんなに事情を打ち明けた。
仲人が来るのに黙っていて、叱られるかと思ったが、父さんも母さんも、熱烈バトルで消耗したのか静かに微笑むだけでなにも言わなかった。失敗話にはあきれたものの、小学生にしてその流し目とミニスカひらりで男子学童のアイドルである妹は人のいるところに戻れたのが嬉しいのか、機嫌は悪くない。
「それでお姉ちゃん、出前取ったの?」
尋ねるのに、ティアが代わって、
「材料に余分があったからね。もう一度作ったんだよ。その間、部長も台所で様子を見ていらしたんだ」
「まあ、部長さんが台所に?」
と、グラインダーズが目を見張る。ティアは笑って、
「たっての希望でしたから。それに、私もここの台所は好きです。アシュレイやお義母さんのあたたかさが伝わるような気がして」
その台所でリトライされたから揚げを口に入れた部長は、とことんこなれた大人だ、なるほど、と頷いて結婚式の話を始め、自然にから揚げのことは話題から完全削除した。
「まあ、おまえもこれからはもっとまじめに家事に励むことだ。母さんを見習いなさい」
と、まじめすぎてたまに自分が何言ってるのかわかってない山凍父さんが重々しく頷くのに、
「父さん、姉さんには姉さんのやり方がありますよ」
頭切れて冷静沈着、時に父さんよりしっかりした弟が静かに釘を刺す。アシュレイを除く女性たちがうんうん頷くのに、父さんはなぜとわからず狼狽。
その姿に、ティアは微笑んだ。みんなわかっていて、でも、アシュレイのやりたいように気づかないふりをした。
(ほんとに君と出会ってよかった──)
アシュレイはもちろん、あたたかな家族やいとこ夫婦、見守ってくれる近所の人たちのなかに入ることができて、本当に自分は幸せだ。微笑みながら、
「お義母さんは才色兼備ですから、アシュレイもいずれ似てくるかも知れません。でも、私はなにより、アシュレイがアシュレイらしくいてくれるのが一番嬉しいんです」
「ティア──」
「ただ、けがには気をつけてね。そのことだけが心配だから」
言ったティアに、アシュレイは頷いて、
「明日、部長に会ったら、今度来るときには最初からちゃんともてなすから──笑顔で、って言っといてくれるか」
「うん、わかった」
と、ティアも微笑み、和やかな空気に包まれ、意味なく笑い始めた一家の台所。散歩から帰ってきた猫のタマが明日の父さんの弁当のために残しておいたから揚げを一口かじり、どっ、と調理台から転げ落ちたのを見たものはいない。
ともあれ──アルペジオの終わりはいつも、完全な和音だ。
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