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投稿(妄想)小説の部屋 Vol.3

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No.156 (2007/10/01 00:29) title:On Your Marks 3
Name:実和 (224.154.12.61.ap.gmo-access.jp)

 雨足は強くなる一方なので撮影は延期になった。桂花はあれから柢王の方を一瞥すらせず、寧を伴って別の仕事先へと向かった。
 柢王はいつになく落ち込んでしまったので、気晴らしにジムへ出かけた。ハードな運動をする気にはならず、プールでゆっくりと何周も泳いでいた。
ふと隣を見ると流れるようなフォームで泳いでいる女がいた。柢王が顔を上げると、彼女も丁度水から顔を出し、コースロープ越しに目があった。輝くような赤毛の、目も覚めるような美女であった。女は微笑んで会釈した。気があるのか、単なる社交辞令なのか見分けるのは柢王には簡単だ。今回は完全な後者であった。前者であっても今は乗る気にならない。でも気がないと分かっている相手と話すのは良い気分転換になりそうだ。柢王も会釈を返して話しかけた。
「ここにはよく?」
「いいえ、お客様に招待券を頂いたから来てみたの。良いジムね。あなたは常連さん?」
「えぇ、よく来ています」
「そう、もっと早くここに来るべきだったわね」
女は笑った。水を弾く白い肌がきれいだ。でも恐らく年上だろう。多分桂花よりも。
「泳いだら喉が渇いたわ。付き合ってくださる?」
柢王は喜んでその申し出を受けることにした。
2人はアイスコーヒーを買ってプールサイドの椅子に腰掛けた。
「あなた黙々と泳いでいたわね。一日何キロ泳ぐとか目標でもおありなの?」
「いえ、普段は上でトレーニングしていますが、今日は泳ぎたい気分だったんです。ひたすら泳いでいると何も考えずに済みますから」
「あら、恋?」
「そんなところです」
「上手くいっていないのかしら?」
柢王は苦笑した。
「実は振られました。いや、これまでその人に何回も告白しては振られ続けているんですが。でも今回は怒らせてしまって」
いつもならこんなこと話さないのだが、理知的できれいな瞳を見ていると彼女なら話してもいい気がした。
「次に行かないの?あなたなら相手に困らないでしょう」
「今までだったらそうしていたんですけど。でも今回に限ってはここまで思える相手は2度と現れないって思っているんです」
「純情ね」
「そうですね。自分でも意外ですが」
「なぜ振られたの?」
「分かりません。あまりにストレートに行きすぎたのかなとは思っていますけど」
「そんな手を使うようには見えないけど」
「普段は違います。でも今回は頭を使う余裕なくて。だから気持ちのままに行くしかなかったんです」
「上手い手とは思わないけど素敵ね。で、何と言われたの?」
「あなたに振り回されるのはたくさんだ、と」
「あら、ではあちらも少しはあなたの言葉に揺れていたということかしら?」
「そうだったら嬉しいんですけど。嫌われたら意味ありませんが。でもやっぱり諦めがつかないんです」
「ままならないから恋は魅力的なのよね。魔力と言ってもいいわね」
「あなたも恋を?」
「年の功と言うのかしら。きっとあなたよりは経験豊富よ」
「分かりますよ。あなたは魅力的ですから」
「ありがとう。でも私を口説いても無駄よ」
「そいつは残念ですね」
「口先だけでそんなこと言ったって駄目よ。上の空で口説かれても幻滅だわ。女だったら分かるし、それが分からないような女ならやめた方が賢明ね」
「座右の銘にしますよ」
女は鈴を転がすような声で笑った。
女はプロポーションも素晴らしく、行き交う他の客達は皆、振り向いていた。
気持ちは分かるぜ、と柢王はアイスコーヒーを飲みながら思った。多分自分がいなかったら声をかけてくる男はわんさといただろう。
そういえばこんなところ、週刊誌に撮られたりしないだろうな。今まで特に何とも思わなかったが、今、撮られたら余計桂花の信用を失いそうな気がする。それは困る。ヒジョーに困る。
「あら、どうかしたの?」
落ち着きをなくした柢王に女は尋ねた。
「いや、何でも、すみません。みんな振り返るからこんな美人と一緒にいるのかと今更ながら緊張してしまって」
女はクスリと笑った。
「そう。てっきり週刊誌に撮られないか心配しているのかと思ったけど」
「・・・バレていましたか」
「自分のところのスタッフがお世話になっている俳優さんが分からないほどぼんやりしていないわ」
「えっ?」
「うちのスタッフのヘアメイクの技術はお気に召して頂けているかしら?」
「…と、いうことはあなた、李々?」
「私をご存知なのね。光栄だわ」
桂花の名前を出さなくてよかった。けれどこれは桂花のことを知るチャンスだ。
「桂花の腕にはいつも感心していますよ。今まで会った中じゃ最高だ」
柢王は心からそう言うと、
「桂花とはパリでお会いになったそうですね」
と、少し身を乗り出した。
「事務所を立ち上げたばかりの頃にね。あの子がパリで勉強していた時に会ったの。素晴らしい才能だったからすぐに事務所に誘ったわ」
そこまで言うと李々は優雅な仕草で首を傾けた。
「あの子に聞かなかったの?」
「あいつとはゆっくり話す暇がないんですよ」
「そう。そしてあの子は自分のことを話さないから」
「昔からですか?」
「そうね、私の影響かしらね」
「あなたの?」
「えぇ。私の哲学なんだけど。・・・『絶対はない』」
「絶対・・・?」
「そう。特にこの仕事しているとね。もちろん仕事だけではないけど、そう思う場面にいくつも出会うわ。あなたも経験がおありだと思うけど」
柢王も李々の言うことは理解できた。芸能界という華やかな世界の裏側は美しさから程遠い。今の地位を明日、突然失う。それが決して驚くような話ではないこの世界で、第一線を走り続けることがどれほど難しいか柢王はよく知っていた。
「桂花もそんな経験が?」
「仕事もそうだけど、あの子は恵まれた環境で育っていないから余計私の言うことが理解できたのね。でもこの業界で成功するには正解かもしれないわ」
「あなたも桂花との関係がいつまでも続くとは思っていないのですか?」
「私達はこれまで支えあってやってきた。これからもそのつもりだけど、でも、いつもどこかで終わりを予感しているわ。悪い意味ではないの。例えばあの子が独立するとか、違う所で仕事をするとか、私の元から離れていくことを、ね」
「自分を委ねられる誰かを見つける、とか・・・?」
「それはあなたが望んでいるのではなくて?」
李々は柢王を流し目で見た。
「あなたが熱烈に想っている相手ってあの子でしょう?」
「えぇ」
柢王はあっさり認めた。李々は肩をすくめた。
「あなたって本当に良い度胸しているわね。誰が聞いているか分からないのに。そこが大物になれる所以なのかしら」
「度胸はないですよ。今だって明日、桂花と会うことにこんなにビビっている。俺の不用意な一言で本当にあいつに嫌われるかもしれない」
あるのはどうなっても、どこまでも桂花を追いかけるという決意だけだ。
「あの子は今までたくさん傷ついてきて、だから容易に自分をさらけ出せない。でもそれでくだらない人を近づけないのなら、それは良い事なのかもしれないわね。私はあの子を実の子のように思っているの。下手な人には渡したくないって思うほどには」
「それはあいつを縛り付けているのではないですか?」
李々は挑戦的な笑みを浮かべた。
「そうかもね。でもあなたに言われたくないわ。あなた相当独占欲強いタイプでしょう?今までその独占欲を刺激する相手と出会っていなかっただけで」
「おっしゃる通りですよ。俺はスゲー嫉妬深いし、独占欲も強い。今だってあなたにスゲー嫉妬している。だからあなたの思う壺にはならないつもりです」
「今の状況ではあなたが絶対的に不利ね。あの子が寄せている信頼も信用も私の方が上だもの」
「俺、諦めも悪いんです。さっきも言いましたが」
「諦めの悪さだけで人の心が動くかしら?あなたほどモテる人だったらそれはよくお分かりだと思うけど」
「確かに戦局は圧倒的に俺が不利ですよ。あなたのカードの方が断然有利だ。でも、俺はゲームオーバーになっても諦めませんよ。何セットでもやってやる。体力には自信があるんです。確かめてみます?この後にでも」
「魅力的なお申し出だけどやめておくわ。前途ある若者の自信を失わせたら気の毒だもの」
李々はフフっと笑うと立ち上がった。
「さて、そろそろ行かなくては。面白い時間が過ごせたわ、ありがとう」
「桂花は俺のことは信じないがあなたの言うことは信じちまう。あいつに変なこと吹き込まないで下さいよ」
「さぁ、どうしようかしら。女の細腕でこの世界を生き抜くにはズルい手も使わなくてはならないの。・・・あなたもお気の毒ね。こんな気難しい姑がいる人を好きになってしまうなんて。今度は家族構成もきちんと調べてからにした方がいいわね」
「生憎、『今度』なんか考えてもいないし、そんな物はいりませんよ」
「危険な橋ばかり渡ろうとしていると破滅するかもしれないわよ」
「あいつに破滅させられるなら本望ですね」
「ロマンチストだこと」
「恋する男は誰だってロマンチストですよ」
李々は艶やかな一瞥を投げると出口へと歩きかけて、振り向いた。
「週刊誌に撮られるかどうかの心配なんて今更じゃなくて?それに桂花との秘密の恋を続けたいなら世間には私と付き合っていると思わせておく方が便利なんじゃないかしら?」
「それは俺とのことを許していただけるということですか?」
「あなた次第ね。言ったでしょ?下手な人には渡さないって。お手並み拝見というところね。不合格だと思ったらいつでも邪魔して差し上げるからそのつもりで」
「心しておきますよ」

見惚れるくらい美しい後ろ姿がドアの向こうへ消えると同時に柢王は椅子の上にひっくり返った。

リフレッシュするつもりで来たのに。余計に疲れてしまった。

 次の日の撮影。やはり桂花は自分の仕事以外は柢王を一瞥もしなかった。柢王も氷点下の怒りを感じるので近寄らなかった。それを無視する無神経さは持ち合わせていない。そんな膠着状態で撮影は何事もないかのように進行していく。柢王も何事もないかのように仕事に没頭しているように見せていた。それが出来ないようではプロではない。
 数日後、柢王は他局でトーク番組の収録があったので撮影を休んだ。
 トーク番組はどこもほぼ同じだ。もう慣れた。
観覧席から上がる黄色い悲鳴に爽やかな笑顔で応えること。プライベートの話に自身の恋愛観。素の自分を、少しだけ「芸能人」というオブラードでくるんで、雑誌の取材でもどこのトーク番組でも矛盾がないように気をつけながら話すことも。全てさらけ出す必要はない。求められている分だけ提供すればいい。まさか今、男への片思いに悩んで悶々としています、なんて言えないし、そんなこと誰も知りたくないだろう。事務所も大混乱になるし。週刊誌は知りたいだろうがそんなサービスしてやる必要はない。第一、桂花が傷つくことだけは絶対嫌だ。
 柢王はプライベートや仕事の失敗談などを披露してスタジオを沸かせながら、収録は和やかに進んでいった。話題は柢王の現在の仕事に移った時、同じくゲストで来ていた大物女優が口を挟んだ。
「あなたのドラマのヘアメイクさんって李々のお弟子さんなんでしょ?」
こんなところで桂花の話題が出るなんて思わなかった柢王は驚きつつも頷いた。
「あ、はい。桂花ですか?」
「私、李々とは親しくして頂いているんだけど、この後パーティがあって彼女にメイクをお願いしていたの。でも彼女、急用で来られなくなって。それで急遽、彼女の1番弟子の桂花を寄越してくれたのよ。ついでだから、さっきもメイクやってもらったんだけど。彼、いーわねぇ。さすが李々の1番弟子だけあってすごく上手いのよ。しかもものすごく美形だし」
女優は上機嫌でオホホと笑った。司会のお笑い芸人は「美形だからってー」と突っ込んでスタジオが笑いに包まれたが、柢王は聞いていなかった。
早く収録が終ることをひたすら願った。


No.155 (2007/09/24 23:15) title:On Your Marks 2
Name:実和 (u064001.ppp.dion.ne.jp)

 行きつけのバーに集まった女友達は、それぞれ最近のことや芸能界の噂話を披露してくれた。空也も嬉しそうにモデル達と話していた。
「そういえばヘアメイクって桂花なんでしょー?彼も誘ってくれれば良かったのにー」
1人が甘えた口調で柢王を見上げた。
俺が1番来てほしかったんだ!と柢王は心の中で叫びつつ
「事務所で仕事があるからって断られちまってさ」
彼女の髪を指で撫でた。
「そーだ!この後、みんなで彼のとこに行かない?」
柢王の向かいに座っていたモデルが声を上げた。
「あー、それいいね!」
他の女性達もはしゃいだ声で賛成した。
「何だ、みんなあいつの事務所の場所、知ってんのか?」
柢王が尋ねると、皆口々にその場所や周辺の目印になる店などを言い出した。

勿論行くつもりだった。

勿論1人で。

 閑静な通りにその事務所はあった。買い物袋を提げた柢王はスタイリッシュな建物を見上げると窓から灯りが見えた。階段を上っていくとガラスのドアがあり、中を覗くと灯りに照らされて少しオレンジ色がかった白い髪がこちらに背を向けてテーブルに向かっていた。鍵が開いていたのでそっと扉を押すと、夜の静寂にカウベルの軽やかな音が響いた。白い髪が振り向くと、柢王は袋を持った腕を上げて軽く振って見せた。
「陣中見舞い」
「飲んでいたんじゃなかったんですか?」
2次会をせがむ女友達を空也に任せた後、柢王はこの場所に向かった。桂花の事務所へ行く話から巧みに話題を逸らせたことと皆、酔ったこともあり、解散時にその話題は出なかった。
「もう解散した。明日も撮影だし。本当に仕事だったんだな」
「嘘かどうか、確かめに来たんですか?」
柢王はいささか剣呑な眼差しに、けろりと言った。
「つーか、こんな遅くまで仕事なんてやっぱ気になるじゃん」
「あなたって本当に変な人ですね」
「ははっ、やっぱ?」
桂花はため息をつくと立ち上がってコーヒーを淹れてくれた。今すぐ叩き出すつもりはないらしい。
「で、本当は何なんですか?」
「疑り深いなー。本当に気になったんだぜ。前にも言ったろ?惚れたんだって」
そう言うと柢王は袋をテーブルの上に置くと中身を次々と取り出した。
「ワインと、あとチーズだろ。クラッカーも買ってきたんだ」
「・・・まだ仕事中ですので」
「んじゃあ、チーズとクラッカーだけにしとくか?このコーヒー美味いな。これにも合うと思うぜ。それにこのチーズ、美味いって評判なんだ」
「彼女から教えてもらったんですか?」
「いーや、女友達」
「あちらはそう思っていないのでは?」
「んなことないって。みんな適当に遊んでいるぜ。俺はその遊び相手の1人」
桂花は信じていなかった。この男の噂は度々聞いていた。それでも今のところ悪い噂を聞かないのはよほど要領が良いのだろう。たまに週刊誌にデート写真が載って軽く噂になる程度だ。
 桂花は美味そうにコーヒーを啜っている男を冷ややかに見た。でもそんな素行で惚れただの本気だのと言われて真面目に取れるわけがない。自分の何に興味を抱いたのかは知らないが、面倒なことには関わりたくない。
 柢王はチーズを口に入れ、呑気に「やっぱ美味いな、これ」と頷いている。そしてクラッカーにチーズを乗せるとテーブルの前にじっと立っている桂花に差し出した。
「ほら、お前も食えよ。美味いぜ」
桂花は無表情でクラッカーを受け取って口に入れた。口の中にクラッカーのサクサクした食感と濃厚で微かに甘いチーズの味が広がって柔らかく溶けていった。
柢王は嬉しそうに桂花を見ていた。
「な、美味いだろ。ワインと合わせるともっといけるぜ。ワインやるからまた試してくれよ」
「頂けませんよ、こんな高価なもの」
仕事で出席したパーティで、ワイン好きの主催者が勧めてきた物と同じ銘柄だった。
「いーって、遠慮すんなよ。今度来る時まで預かっておいてくれ」
「また、来る気ですか?現場で会うのに」
「いつだって会いたいんだ。現場だけなんて足りない。ずっと一緒にいたいんだ」
何の捻りも工夫もない台詞を恥ずかしげもなく、真っ直ぐ桂花の目を見て言った。
 桂花は髪をかき上げた。
「あなたって諦めが悪いのか鈍感なのか。何でそこまで拘るんです?」
「昔から、本当に欲しいって思ったものは諦めないタチなの。でも正直こんなにホネがある奴は初めてだけどな」
「今までの彼女達もそうやっていたんですか?」
「いや、どっちかって言えば向こうから。まぁきっかけ作ったのは俺ってことが多いけど。それに関しては追う側になったことはないぜ。成り行きによってはちょっと追ったこともあったけど」
「あなたって最低ですね」
「嫌いになった?」
屈託ない表情で言われて桂花は心底呆れた。
「嫌いになるほどのことではありませんけどね。ただ、残念ながらあなたの気持ちには沿えません」
「それって無関心ってこと?」
「えぇ、具体的に言えば」
「きついなー。好きの反対は無関心だぜ」
「吾としては好都合ですね」
桂花は自分のコーヒーを継ぎ足した。柢王が「俺も」とカップを差し出してきたので淹れてやった。
柢王は天井を仰ぎ見た。
「振られたのは人生初だな」
「良い人生経験になったでしょう」
「本気で惚れたのも初めてだけど」
「人生最良の思い出の一つですね」
「おい、もう過去かよ」
柢王はがっくりと項垂れた。その様子に桂花の口元が思わずほころんだ時、柢王はがばっと顔を上げた。
「あっ、今ちゃんと見てなかった!」
「は?」
「今、お前笑ったろ?お前が笑ったとこ、初めて見た。一瞬だけしか見られなかったけど、スゲー、キレかった。なぁ、もう1回笑ってくれよ」
目を輝かして身を乗り出してくる柢王に桂花はため息をついた。全く、この男には何回ため息をつかされることか。
「何、馬鹿なこと言っているんですか。それよりコーヒー終ったでしょう、早く帰って下さい。明日も撮影なんですよ」
そう言うと桂花はさっさとテーブルの上を片付け始めた。
「えー、もう1回くらい、いーじゃんかー」
椅子にしがみ付いてブーブー言う柢王をとっとと玄関まで追い立てた。扉を開けると夜の涼しい空気と玄関脇にある鉢植えの花の仄かに甘い香りが室内にひっそりと入ってきた。
柢王は空を見上げ
「明日も良い天気かな」
と呟くと桂花を見た。
「ありがとな。突然押しかけたのに付き合ってくれてさ」
いきなりそんなことを言われたので桂花は面食らった。
柢王は優しい目で笑いかけると「じゃーな」と言って階段を降りていった。その後ろ姿をぼんやりと見送っていると、数段降りた柢王は突然回れ右で駆け戻ってきて
「なぁ!おやすみのチューするの忘れてたんだけど」
と真面目な顔で言ってきたので桂花は男の鼻先でバタンと扉を閉め、鍵を掛けた。そして振り向きもせずにキッチンへ行くと食器を洗い始めた。
「何だよー、舌までは入れねーぞー」
不穏なことをぼやきながら階段を降りていく足音が聞こえた。
桂花はふと振り向くと、テーブルの上には柢王が持ってきたワインが残されていた。冷蔵庫にしまおうとしたが、そのまま自分の鞄の側に置く。オレンジの灯りが一つついた部屋は柢王が来る前と同じはずなのに、何だか今はガランとして見える。扉を開けた時に入ってきた花の香りと夜の空気と共に子供のように騒ぐ声と、桂花の目をまっすぐ見て話す時の温かくて深い声とが、気配のように漂っているように思えた。
本当に厄介な男だ。桂花はこの夜、何度目になるか分からないため息をついた。
 食器を拭くと、桂花は柢王が座っていた椅子に腰掛けて鞄の側にひっそりと置かれているワインボトルを眺めた。

・・・本当に、厄介だ。

 次の朝、柢王は桂花の姿を見つけると「よっ、昨日はごちそう様」と声を掛けてきた。それに桂花は素っ気無く挨拶を返した。柢王はいつもと同じようにメイク中も1人で喋っていた。
 ほんの一瞬風が起きただけなのに、桂花の胸には嵐が去ったような痕跡を残していた。それなのにこの男は全く変わらないのだ。馬鹿らしい。こんないい加減な男のために気持ちが僅かでも揺れるなんて全くの無駄だ。桂花は瞳に険を宿して黒髪にワックスを付けていった。
 一方で、柢王は常にない桂花の様子を敏感に感じ取っていた。他の人間では分からないような違いだが、いつも桂花ばかり見ている柢王には大きな違いだった。
・・・チューさせてと言ったことが気に入らなかったのかな。でも、そんな程度のこと(?)で今更気分を害すようにも思えない。
とにかく昨夜の訪問が桂花の心に波紋を投げたことだけは確かだった。
 柢王は僅かに乱暴にドライヤーで髪を乾かす桂花の手を感じながら鏡越しに桂花を盗み見た。
自分でも桂花の心を揺さぶることができるらしい。
それって期待してもいいんだよな。柢王は心の中で確認する。普通なら気分を損ねさせてしまったことに落ち込むが、神経が図太いのか1本ないのか柢王の思考回路はポジティブだ。

かくしてやたらに温度差のあるメイクルームであった。

 今日の撮影は午後から外で行われた。
「はいっ、オーケー!」
監督の声で現場の空気が緩み、スタッフ達が動き始める。柢王もモニターで自分の演技を確かめていた。と、頬にポツリと雫が落ちてきた。いつの間にか雲が厚くなったと思った時、細い透明な糸のような雨がサラサラと降ってきた。スタッフ達は慌てて機材を片付け始め、出演者達もロケバスに乗り込んだり、日除けのテントの下に入ったりした。
 柢王はテントの下でコーヒーを飲みながら視線で桂花を探した。どこにいても真っ先に桂花の姿を探してしまうのはもはや癖である。桂花はもう一つのテントの下にいた。柢王は紙コップにコーヒーを入れてそちらへ移った。
 桂花は気配がしたので振り向くと、柢王が紙コップを2つ持って駆け込んできた。
「お疲れさん」
柢王は紙コップに入ったコーヒーを差し出した。いりませんと突っぱねたいが、大人気ない振舞いをするわけにもいかず桂花は黙って受け取った。撮影が続いていたら話しかける隙なんて与えないのに。どうしてこんな考えなしの味方につくのかと桂花は天を恨んだ。さらに不幸なことにこのテントの下にいたのは自分1人であった。静かでホッとしていたのに。
「昨日のことさ、怒ってる?」
考えなしは桂花の心情にまるで無頓着に尋ねてきた。
「あなたはどう思っているんです?」
桂花はコーヒーに口も付けずに冷たく聞き返した。
「俺はさ、お前と2人っきりで話ができてスゲー嬉しかったよ。現場だとゆっくり話できないし」
当たり前だ。そんな隙なぞ与える謂れはない。
「そうですか」
「でも、それだけの価値はあると思うぜ」
「そうでしょうか?」
「そうさ。少なくとも俺にとってはそれだけの価値があるんだぜ」
「あなたが吾の何を知っているんです?」
「そう、何も知らない。だからお前のこともっと知りたい。どうでもいい奴にはそんな気持ち、持たないぜ」
「吾はあなたのこと、知りたいとは思いませんけど」
「いいさ。俺が勝手にそう思っているってだけなんだから」
そう言うと柢王はコーヒーを飲んだ。
これだけあからさまに拒絶しているのに、なぜこの男は懲りないのだろう。しかも相手はトップスターだ。桂花を下ろすことだって造作ないし、それくらいは覚悟していた。普段はここまでしない。これまで桂花に近づいてきた人間は数多くいたし、しつこい相手もいたが適当にかわしてきた。自分の仕事に支障がないように。こんな人間は初めてだ。こんなにしつこくて、熱くて、真っ直ぐな・・・。
 桂花はコーヒーを一息に飲み干すと紙コップをカンと音をたてて、組み立て式のテーブルの上に置いた。
「いい加減にして下さい」
「桂花?」
訝しげに桂花を見下ろした柢王の顔を桂花はまっすぐ睨み上げた。
「あなたに振り回されるのはたくさんです」
「桂花?どうしたんだよ?」
桂花はそれに答えず、テントから走り出るとロケバスに乗り込んでいった。

― どうしたんだよ?

そんなの、こっちが教えてほしいくらいだ。


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